空想的視覚現象 Z.Mastabe


Back   Next  



A.序章

小さな木造の図書館の中。
彼女は、小さな紙のメモを手に本を探している。
目的の本があったので、そこに手を伸ばそうとしたとき、その本のとなりにあった写真集に目がいく。
彼女は別に大した興味もなかったが、写真集を手に取り開いてみる。
そして、ほんの少し興味を示した表情をした。
古くてもう窓のガラスがない列車が倒れている写真。
制服を着ている女学生の姿の片足折れたマネキンがゴミのように捨てられている写真。
たいした注意を払わずに、パラパラと流すようにしてながめていたが、彼女は「ハッ」として手を止めた。
開かれたペイジをみると、コンクリートの地面に巨大な円柱形のタンクが2本ならんで生えていていて、そこへ無数のパイプが差し込まれている。
その前で白い服を着た少女(何故かその少女は裸足である)が小さく地面にうずくまってしきりに何かしている。
  何か描いているのか、何かを見ているのか、どうもはっきりしない。
彼女は表情を変えずに、とりつかれたようにその写真に見入っている。
 「わたしはこの写真を確かに知っているわ。
 ここが何処だか、この少女が一体何をしているのかわからないけど・・・この少女は私の良く知っている娘」
彼女は涙を流し始めた。
 「どうして涙が出るんだろう・・・」


B.彼女の夢@

限りなく続く地平線。
空には蒼い雲がたちこめているが、特別暗いという訳ではなく、風も全く無い。
わたしは空に太陽を探したが、どうやら見あたらないらしい。
地面は何だろう。
砂だ。
廻りは一面の砂漠だ。
地面には水平線の向こうまで、無数の人間の肉体らしきモノが横たわっている。
そのモノはどれ一つとして、身じろぎさえもしない。
死んで居るんだろうか。
いや、どうも死んでいるという感じじゃなさそうだ(と言ってもとても生きているとも思えないが)。
何故なら、そこら一面に転がっているどれもは、きちんとした服装をしていて髪型もまったく乱れていない。
  それに、何よりそれらはパッチリと眼を開けているのだ。
あたかも、人間のように。
息はしているのかな。
そう思って、それらのモノのひとつに手を伸ばし呼吸を確かめようとすると、わたしの後ろの方で、「ポンッ」というマヌケな音がした。
その音がするまで、辺りがあまりにも静まり返っていたので、わたしはちょっとビックリして後ろを振り向いた。
そこには、青い帽子をした7、8歳の男の子が小さな丸い背中を見せてしゃがんでいた。
男の子は、そこらに転がっているモノのひとつに何かしている様子だった。
わたしは、その男の子に「そんなものに悪戯しちゃだめだよ」と言おうとすると、またさっきの「ポンッ」というマヌケな音がした。
すると、男の子はしゃがんでいたすぐ傍らの次のモノの前へ、わたしに顔を見せずにピョンとしゃがみ込んだ。
また、「ポンッ」という音がした。
わたしは、その男の子が何をしているのかどうしても知りたくなって、男の子に近づいて行った。
 「ねえっ」
と言って男の子の肩に触れた。
 「ねえ、なにしてるの?」
そう言い終わらないうちに、わたしは「ギョッ」として動けなくなった。
と同時にわたしは、例の音が何であるか、男の子がころがったまま動かない人間たちに何をしていたか、一瞬にして全てを理解することができた。
わたしに肩をたたかれ、ビクリとして振り向いた男の子の口の中いっぱいに、そこに横たわっている人間のものと思われるひとつの眼球がはまり込んでいた。
わたしを驚かせたのはそのことよりも、その男の子の顔が病的に白くて、皮膚が恐ろしく薄いため、耳や、眼のまわりが赤身を帯びていて、何より眼がひかりを失って死んでいる(こういうのを死んだ魚の眼と言うのだろう)ことだった。
男の子はわたしの目をみつめながら、口に挟まっている眼球を「ポンッ」とやって飲み込むと、そのひかりを失った視線をわたしの背後にやった。
すると、男の子はひどくおびえた表情を残して、無言で転がっているモノをピョンピョンとまたぎながら慌てて走り去って行った。
わたしは男の子の視線の方を見た。
そこには、巨大な円柱形のコンビナートが2つ並んで立っていて、無数のパイプがそこから生えている。
その前で、白い服の裸足の少女がうずくまって何かをしている。
 「あ、あの写真だ」
わたしは、そこに近づいて行ってそれに触れてこの世界を充分に堪能したいという欲望で、そこへ近づいて行った。
しかし、一歩一歩近づくにつれて、何かとてつもない不安と、とてつもなく大きなものへの恐怖が加速度的に増して行くのを感じて、ついにわたしは立ち止まってしまった。
  そこでわたしは動きを失い、言葉を失い、感覚を失い、そしてついに意識を失っていったのだ。


C.影響段階

朝だ。
目覚し時計の大きなアラームの音で、起こされた。
朝だといっても、もう午後3時になろうとしていた。
布団から出ずにカレンダーを見た。
 「そうだ、今日は街で古い友人に逢う約束があった」
彼女は、半身を起こして無造作にその長い髪を束ねて結った。
もう一度、近くでカレンダーを見る。
 「4:30 駅改札口にて待ち合わせ」
彼女の字で、赤くカレンダーにそう記されている。
確かに彼女は古い友人と約束をした憶えがあったが、彼女は約束をした相手の名前をどうしても思い出すことができなかった。
 「彼女とは長い付き合いだもの、名前を忘れることぐらいあってもいいものだわ」
彼女はそう呟いてベッドから起き上がると、乱暴に布団を隅の方へ放った。
放った布団が「クシャッ」と小さくなる。
彼女はそれを立ち尽くしたまま確かめるように暫く眺める。
そして、洗面所に入ると、洗顔料を使わずに水だけで顔を洗う。
彼女はバスタオルを取り、顔を拭く。
ふと、目の前の大きい鏡の中のバスタオルに埋もれた自分の姿を見ると、彼女は少し驚いて、鏡に手を当てて撫でた。
蛇口の水が洗面器に流れ落ちる音が響く。
彼女は暫くそうして鏡を撫でていたが、やがて我にかえると自分の頬に手を当てて蛇口をひねった。
急ぎ足でマンションの3階の303号室から出ると、エレベーターの前を通り過ぎ、その先の螺旋状の階段を降りていった。
彼女はいつもマンションを上る時はエレベーターを、下る時はこの屋上から1階まで続く螺旋階段を行くのだった。
長い長い螺旋階段を下り終わると、彼女はバス停へ向かって住宅街をつっ切って行った。
時計は4:00を示そうとしていた。
彼女は、空を見上げた。
空は、気味の悪いほど鮮やかな橙色をして、あたりの家々をオレンジに染めていた。
 「逢魔・・・」
彼女は心の中でそう呟いて、不思議そうにあたりを眺めながら急ぎ足で住宅街を抜け、今度は団地の中をつっ切って行った。
  バス停はこの団地の向こう側にある。
団地の敷地内では子供達が走り回って遊んでいる。
そのすぐ傍らでは4、5人のその子供達の母親であろう女たちが輪を作って何やらつまらなそうな話をしている様子で互いにうなづき合っている。
彼女は後頭部に痛いほどの視線を感じたので、振り向いた。
反対側のベンチに上から下まで黒装束の若い男が足を揃えて、その黒い帽子の下の目をこちらに向けていた。
勿論、彼女はこんな男とは会ったこともなかったが、何故かその男には全てを見透かされている気がした。
そういう視線だった。
彼女が向きなおって先へ進もうとした時、子供達の集団がボ−ルを追いかけて彼女のすぐ横を走り過ぎた。
彼女は、身体が凍りつく思いがして、立ち止まった。
その子供達の中に、あの夢の中の男の子、そう、めだま喰ってた男の子にそっくりな子供がいて、ボ−ルを追って走って彼女の横にきたとき、そのひかりを失った眼で「ニコッ」と彼女に笑いかけて行ったのだ。
またあの「ポンッ」という音がするような気がしたけど、間違ってもそんな音は聞きたくなかったので、彼女は逃げるようにしてバス停へ向かってその足をもっと急がせた。
幸い、バスはすぐ来てくれたので、彼女は少しほっとした表情をした。
バスの中の吊革が無く、かわりに洗濯物が吊ってあったが、彼女にはあまり気にならなかった。
何故なら、だれもそんなことには気づかないふうだったし、だれも吊革(洗濯物)を使ってなかったから。
道もバスの中もすいていて、10分ほどで駅に着いた。
 「駅です」
とバスの運転手が言った。
駅は、2つの巨大なタンクだった。
 無数のパイプもちゃんと生えてた。
 「こまったな、これじゃ待ち合わせの場所が何処だかわからないわ」
彼女は、あたりを見回しながら少し困ったような顔をして呟いた。
この時間のわりに駅には人が少なかった。
彼女は彼女の側を通り過ぎる人のひとりに訪ねた。
 「あの、改札口は何処ですか」
 「そこを左に曲がったところですよ」
その女は、ちょっと変な顔をしながらもその方向を指さして示した。
彼女は、無言でその示された方へ去って行った。
その彼女の様子を目で追いながら、立っている男がいた。
その男は団地のベンチに居た黒装束の男だった。
男は彼女の姿が見えなくなると、ゆっくりと無表情で自分の足元に目をやった。
そこには、一つの小さなガラス玉があった。
通常、「幻覚」と言うものは、それが「現実」の世界の影響を受けることはあっても、その逆は有り得ない。
つまり、「現実」は「幻覚」の影響を受けることはできない。
何故なら、人間が現実の一部を感覚として直面した場合、その体験は精神の勝手な解釈に依ってデフォルメ化され、精神という内的世界に取り込まれる。
デフォルメの程度がどうあれ、その材料となるものは現実の物を用いざるを得ない。
幻覚とは、何らかの原因で既にデフォルメ化された現実を材料としてデフォルメが成されるので、精神の内部に於て材料としての現実と、デフォルメによる感覚とが、混在することに依って引き起こされる物である。
よって、「現実」が「幻覚」に依って影響されることは、構造上不可能なのである。
しかし、何重ものデフォルメによって、デフォルメのハウリングが発生し、精神に取り込まれる体験の材料が、純粋なる現実ではなく、完全に内的なデフォルメによる不純な体験のみとなったとき、精神はその莫大な情報量を抱えきれなくなり、外の世界、即ち現実に対してそのエネルギーを放出するのだ。
その男の手の中にあるガラス玉だけが、彼女の白日夢の幻覚の中で唯一現実に対して放出されたモノであった。


D.白日夢

彼女は改札口を探して、そこらにある建物達をあちこちと見上げている。
 「これが、改札口かな・・・」
彼女はその建物達のうちの一つに駆け寄ると、螺旋状の階段を昇っていった。
その建物の2階に差し掛かったとき、彼女のうしろで呼び止める声がした。
 「あの・・・ザクロを落としましたよ」
黒装束の男だった。
しかし、男が手にしていたものは、小さなガラス玉だった。
彼女はそれを見て、少し不思議な表情をしながら言った。
 「わたしはそんなもの落としてないし、第一あなたの手にしているものはザクロじゃないよ」
 「いいえ。 これは確かにザクロだし、確かにあなたが落としましたよ。 もっと近くで良くご覧なさい」
男は無表情でこう言った。
彼女は、男の目を疑り深くのぞき込むと、その小さなガラス玉に顔を近づけた。
ガラスの中に何かあるようだった。
しかし、彼女には何があるのかよく見えなかったので、そのガラス玉を自分の手に取り、そして注意深く目を凝らした。
すると彼女の顔が、にわかに青ざめた。
何かに激しくおびえている様子だった。
彼女は呆然として、無言でそのガラス玉を黒装束の手の上に返した。
ガラス玉の中に彼女が見たものは、卑しく汚らわしい自分の姿だった。
黒装束はふくみ笑いをしていた。
 「このザクロをお召し上がりにならないのですか」
そう言いながら、男は彼女の腕を掴んだ。
 「ちょっと、離して下さい!」
彼女はその男の存在に対していい知れぬ恐怖感を覚えたので、男の腕を振り切ってその螺旋階段を何処までも上り続けた。
彼女は男から逃げたくて、できるだけ早く階段を上ったので、すぐ息が荒くなった。
 「あああああああああああああああ」
黒装束の男の叫び声とも、笑い声とも、泣き声とも、うなり声ともつかない無機的で、連続的な声が彼女にも聞こえた。
男はガラス玉を抱えながら、彼女を追ってゆっくりと螺旋階段を上っている。
やがて、彼女は長い螺旋階段を上りきってしまった。
その屋上で彼女はもう逃げ場を失い、その屋上の隅の方へうずくまった。
彼女はびっしょりと汗をかいていた。
男の声が近づいてくるので、彼女は耳を塞いだ。
暫くの間、彼女はそうしてうずくまっていたが何も起こらないので、彼女はゆっくりと目を開けて、耳から手を離した。
男の声も聞こえてこなかったので、ゆっくりと振り向きながら立ち上がった。
そして屋上を何度か見渡す。
静かだ。
突然、金属の重い扉が開いて閉まる音がしたので、彼女は全身をこわばらせた。
続いて螺旋階段を上る足音が聞こえてきた。
彼女の緊張も限界まで達していた。
しかし、屋上に現れたのは黒装束ではなく、黒い女の影であった。
彼女にはその影が、待ち合わせをしていた古い友人であることがすぐに解った。
彼女はホッとして友人の名を呼ぼうとしたが、その友人の名前は相変わらず記憶になかった。
 「・・・よくここが分かったわねぇ。 わたし、今日は嫌なことがあったのよ」
彼女は仕方なくこう言うと、友人の顔を見ようとその影に近づいて行った。
友人は、まっすぐに彼女の方へ向いて、何も言わずにただ立ち尽くしていた。
そして、やっと友人の顔が見える距離になったとき、彼女は立ち止まった。
友人の顔は無機的な笑みをうかべていた。
彼女は友人の名前も、顔も思いだした。
彼女が改札口で待ち合わせていた友人は、卑しく汚らわしい彼女自身であった。
星一つ出ていない夜空に月だけがその蒼も鮮やかに彼女を嘲ていた。


E.解消

気が付くと、彼女は朝もやの中をあの図書館に向かって歩いていた。
彼女は疲れきっていたせいか、顔が真白かった。
心臓の鼓動が彼女の胸を激しく叩きつける。
脂汗が彼女の頬をつたって、アスファルトに落ちた。
この道は車の通りも、人通りも少なかった。
いつもと変わらない日常だった。
彼女には、もう何も考えられなかった。
頭の中で様々な言葉が渦巻いていた。
 「・・・舟・・碧いんだね・・パン・・絨毯さ・・剥きかけ・・つき・・・・」
言葉は意味不明なようで、実は重大な意味を含んでいるような気がした。
しかし、彼女にはその言葉がどんな意味を持っていようが、いまいが関係無かった。
ただ呆然と、ひたすら歩いていた。
今、彼女の中にあるのは、ひどい疲労感と宙に浮いたような自分の存在に対する不安だけであった。
彼女は導かれるように図書館に入って行った。
中は普段の通りにとても静かで、彼女の鼓動も他人に聞こえるのではないかと思われるほど激しかった。
そして、彼女は重い身体を引きずって2階へ続く階段を上った。
彼女はいつかの写真集のあった書棚の間へ入って、例の写真集が収められている棚の前で立ち止まると、ゆっくりとその写真集を取り出し、開いた。
コンビナートの前でうずくまる白い服を着た少女。
以前のあの時と全く同じ写真だった。
彼女の鼓動は速度と激しさを増す。
今、彼女には、その少女が何をしているかハッキリ解った。
 「何かを埋めているんだ・・・」
根拠は何一つとして無かったが、彼女はこの結論に確信を持つことができた。
この結論は彼女にとって、かなり大きな救いであった。
ずっと永い間、この結論を探し続けていたような気がした。
彼女の心が激しい緊張から解放されたので、鼓動も和らいで顔色もいくらか良くなった感じだった。
彼女は安心して、次のペイジをめくろうとした。
 「ポトッ」
彼女の足元で何か小さくて硬い物が床に落ちる音がした。
無意識的に彼女は、ふと足元に目をやる。
ザクロだった。
いや、あの忌々しい黒装束が無理やり彼女に見せつけたガラス玉だった。
 「キャアアアアアアアアアアアア」
彼女は発作的に絶叫し、その声は図書館の上の朝の澄んだ青空に響きわたった。


F.彼女の夢A 〜同性愛的エディプス・コンプレックスの抽象表現〜

雨が降っている。
風は無いがとても寒い。
今何時だろう。
わたし、傘もさしていない。
ここは、この道は、この風景は、知っている。
ここは、わたしの知っている所だわ。
あの電信柱に張り付けられた古ぼけた広告の胸のはだけそうな真白な服を着て笑っている女も見たことがある。
雨降りだからなのか、人がひとりもいない。
そう、ここに今あるものすべては、今、そこになければならないものなんだ。
そう思って辺りを見回して、わたしは何かが確かに足りないことに気がついた。
何が足りないのか自分でもわからないけど、何かが足りないということが、とても不安でたまらない。
そして、その不安な感情でわたしは激しくうろたえた。
気が付くと、どうやらわたしは「足りないもの」
を探して走っている。
何が足りないのだろう。
わたしは雨の中、何をさがして走っているんだろう。
この雨だというのに窓を開けている木造の家(恐らく長い間空き家なのだろう)の倒れそうな垣根の前を通り過ぎ、車なんか決して入れないような細い道を左に曲がった。
わたしは走るのをやめた。
その細い道はただまっすぐ遠々と霧の中へのびていたからだ。
道の両脇には遠々と大きな木がこの道に覆いかぶさるようにしげっているのでかなり薄暗く、雨の音がしないかわりに葉に溜った雨の滴が落ちてピチピチ音をたてて、わたしの荒い息づかいが妙に耳についた。
わたしはただ、まっすぐその細い道を進んで行った。
どのくらい歩いただろうか。
だんだん霧が立ちこめてきて、あたりが白っぽくなってきた。
なんだろう。
ずっと先に赤いものが落ちている。
近くまで行くと、それが人形であることがわかった。
赤い服を着た少女の人形だった。
真っ白な顔をしているが、少し汚れている。
わたしはその髪の長い、愛くるしい顔をして霧にかすんだ暗い空を見つめている無表情な人形をみつめることしかできなかった。
その人形はとても普通で、わたしはたまらない気持ちで、何と言うのか、とてもせつなくなった。
あまりせつないので、あまり哀しいので、わたしは地にひざをつきながら顔を覆って激しく泣いた。


G.破滅

 「お母様が、どうかしたのですか」
うずくまって泣き崩れているわたしのうしろで声がした。
その声を聞いて、わたしはいい知れぬ嫌悪感を感じたが、振り向いて声の聞こえた方向を見た。
そこに立っていたのは自分だった。
でも、わたしはあまり驚かなかった。
分かっている。
もうひとりのわたしも、黒装束も、同じ「わたし」であることは・・・。
そして、彼女がここに居ることもまた、当然の事であり、必要なことであった。
 「あなたはこの人形を<お母様>と云ったの?」
わたしは訪ねた。
もうひとりのわたしは黙ってうなずいた。
わたしは人形をもう一度見つめた。
その人形は、姿勢も位置も変わっていなかったけれど、何となく違っている気がする。
もうひとりのわたしは、ポケットからガラス玉を取り出すと、少し嬉しそうにこう云った。
 「さあ、このザクロをおあがりなさい」
もう沢山だ。
反射的にそう思った。
逃げよう。
わたしはもうひとりのわたしの目を見ながら後ずさりをして、後ろを見せて走りだそうとした。
 「もうだめよ。 何処へも逃げられないわ」
もうひとりのわたしの眼は機械的で冷たかった。
そのザクロを食べたらどういう事になるのか、大体の見当はつく。
わたしは本当にそうなることを欲しているんだろうか。
 「あなたは、それを望んでいるの?」
もうひとりのわたしは黙っている。
わたしは彼女に否定して欲しいと思ったが、今度はうなずかなかった。
雨の音がする。
濡れた髪から雨の滴がたれている。
わたしはそのザクロを食べようと思った。
ゆっくりと彼女に近づいて、ザクロを手にした。
ザクロの中に、目を背けたくなる程卑しく、淫らな光景があることは分かっていたが、わたしは見ないふりをした。
食べた。
急にイライラする腹痛がわたしを襲った。
その激痛で、頭がぐるぐる回った。
わたしは平衡感覚を失い、耐えられずにその場にうずくまる。
地面に千枚通しがある。
あまりイライラしたので、わたしはその千枚通しを拾って、背中を見せてわたしの横に立っている中年の男を突いた。
 「お父さん・・・好きよ」
わたしがそう云った。
なんだか、自分の言葉じゃないみたいだな。
男を足で蹴って千枚通しを抜いた。
男は言葉もなく、崩れて倒れた。
何かとても良くないことをした、という大きな後悔があったが、この充足感には及ばなかった。
わたしは、今まで押さえつけられていた大きな力が、きれいサッパリ無くなった解放感を覚えた。
そして、わたしは、ためらいもなく赤い人形をその手に抱いてしゃがみこんで人形の乱れた 髪を手で整え、雨に汚れた顔をハンケチで拭いた。
後ろから、もうひとりのわたしが近づいてきた。
手に少し大きめの石を持っている。
 「まだよ!」
わたしがそう云うと、彼女は立ち止まった。
わたしは千枚通しを持っている側の腕をあげた。
そして、少しためらったが、わたしは手を振り降ろし人形を突いた。
胸に突き刺さる。
人形の首が力無くうな垂れた気がした。
大きくて漠然とした安心感と、脱力感がわたしを包んだ。
雨で濡れた地面に腰を下ろして、わたしは彼女が近づいて来るのを待った。
彼女が近づいてきた。
わかっています。
わたしは、罰を受けなければなりません。
彼女の顔は哀しかった。
そして、わたしの前で立ち止まると、わたしの頭を狙って石を持っている手を振りかざした。


    (「パチッ」とテレビの電源を切ったときの様に映像が途切れる)


H.終章

真昼。
彼女の心臓の鼓動だけが響く。
彼女は真白な顔をまっすぐに天井に向けてベッドに横たわっている。
眼を開けているが、彼女は視覚を失っていた。
電話がなる。
彼女は眠って居るわけではなかったが、聴覚を失っていた。
窓からの強い日差しが彼女の顔を照らしていたが、彼女は感覚を失っていた。
そして、彼女は言葉も失ってしまっていた。
彼女の閉ざされた意識はいつまでも眠り続ける。



Home   Back   Next